旦那の知られざる過去 ~ The untold story ~
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こんにちは、国際結婚+年の差婚の かみなり3番です。
今日は、旦那があまり人に話さない、彼の移民としての過去をお話しします。なかなか人から聞ける話ではないと思うので、良かったら読んでください。
移民大国のオーストラリア。色々な理由で各国から人々がオーストラリアに辿り着きます。
旦那がスコットランドから到着したのは、半世紀以上も前。
当時のオーストラリアは移民ブーム。各国(特に英国とヨーロッパからの移民を斡旋していたそうです)
移動手段として主流だったのが、タイタニックのような大型船。
二段ベットがあるような下級のお部屋だったとの事。
船で3週間。スコットランド出港、エジプト、スリランカに停泊しながら、パース、アデレード、そしてメルボルンに到着。
両親、姉、妹。五人一緒とはいえ、どこに連れて行かれるのか不安だったと。
メルボルンに到着後、1Kのアパートで生活が始まりました。
子供3人は部屋で寝て、お義母さんはキッチンにマットレスを敷いて寝る。お父さんはすぐ出稼ぎ(マイニング)に出かけ、3ヶ月働いては数週間家に戻るという生活。
こういう生活が、長い間続いたそうです。
そして、サウスメルボルンにある小学校に入学。当時の彼のクラスにはオーストラリア人しかいなかった為、スコットランド訛りで酷いイジメにあったと。クラスになじもうと思い、訛りを必死に消そうと頑張ったけど消えず、母親にいつスコットランドに帰れるのか、毎日問いだたしていたそうです。
そのせいなのか、旦那はオーストラリア人の話をする時にThey(彼ら)を頻繁に使います。We(私達)ではないんですよね。50年以上住んでいるのに、オーストラリア人の中に受け入れられなかったという記憶が強く残っているようです。
義父母の移民の動機
義父母はスコットランドで下級クラス。工場勤めをしながら生計を立ててたと。当時のスコットランドでは(今もそうかもしれませんが)、子供達が親の生活水準から抜け出せない社会のシステムだったそうです。
一方で、オーストラリア政府はかなり手厚く移民をサポート。当時、景気も大好調。
オーストラリアなら経済的に安定した生活環境を子供達に与えられるのではないか、と思い移民を決意。
故郷には戻りたいと思った事は?という質問に、ないと言ったら嘘。でも子供や孫たちがオーストラリアで幸せに暮らしているから満足。と。
親元を離れ、頼れる親戚もいない環境で、仕事や育児をする事がどれだけ大変か理解してくれる義父母。感謝しています。
こういう事もあり、娘にはスコットランド文化を大切にして欲しい想いから、スコットランドの名前をつけました。
苗字も名前も、見ただけでスコットランド人。
娘が大きくなり、オージー文化を大切にしつつも、スコットランドと日本にルーツがある事、理解してくれるといいな。ベジマイト、ブラックプッディング、お寿司、食べれるようになるかな 笑 。
そして、このストーリーが、後の世代に受け継がれるよう、娘や継子達に伝える事が私たち夫婦の使命(ミッション)です。
貴重なお時間をさいて頂き、大変ありがとうございます。
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